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訪問看護の手続きはどう進めただろう

父の入った有料老人ホームは病院の系列で、訪問介護もやっていて、看護師もいて、外部の訪問看護は受け入れていないところだった。
そこに、バルーンカテーテルを入れ、じきに酸素も必要となり、点滴も必要となるような状況で入居したのだ。いや、4月の入居後北側の病室に再入院して6月に再退院したときのことだった。

退院のときに、どうやって外部の訪問看護の手続きを進めたのか、どう考えても思い出せない。わたしが家族の窓口になっていたはずなのに。2011年の手帳を昨年暮れに飛行機のなかに置き忘れて紛失してしまったのも痛手だ。
病院のSWさんか、父のケアマネさんか。あるいは二人で進めてくださったか。これ以上ないほどいい方を紹介してくださり、ありがたいことだった。あのころ日に二度来てくださる看護師さんが、父と母にとってはたいへん頼もしく心強い存在だった。もちろんホームの介護も気配りがあり落ち着いて過ごせたのだ。
ホームにとっては外部の訪問看護を受け入れる最初のケースになっていて、すべてが手探りだったようだ。あとでその訪問看護の所長さんからそれらのお話も少しだけお聞きすることができた。
しかも、あのホームでは、看取りをしたのも父が初めてだったそうだ。看取りをホームですることはどなたが動いてくださったのだろう。主治医だろうか。病室ではなくホームの居室で最期を迎える時を過ごせたのは、父にとっても母や家族にとっても、ありがたいことだった。
あれらの父のケースがよき第一歩となってくれればいいがと思う。

2011年の記憶はほとんどない。断片はある。どうやって日々過ごしていたのか、どうやって仕事をこなしていたのか、信じられない気がする。
頭がおかしくなっていたのだろう。

こうやって書きだしてみると五月雨式に思いだすことがある。
亡くなる最後の日に、ケアマネのハラグチさんが突然訪問して会ってくださったのだった。あの日は踵に褥創ができかかり、病院に相談に行く途中でSWのフクイさんに偶然お会いし、事情を話して皮膚科の往診をしてもらった。その時にフクイさんも居室に来て父に会ってくださった。まさかその日に亡くなるとは思いもしなかったのだが、お二人とも父が呼んだのだろうかと、あまりの偶然に、後で思ったりもしたのだ。

追記
そうやって思い出すと、あのホームでは、介護者が居室に泊まり込むというのも初めてのケースだった。最初に申し込んだ1月の時点ではそれは不可能だと言われたのだ。だが、系列の病院での「実績」が認められたのか(笑)、母が一日24時間、一週間7日そこにいることができた。さっそく簡易ベッドや小さな冷蔵庫、レンジなどを購入した。
by e3ei | 2012-12-09 02:13 | 父 没後の手続き Prozeduren | Trackback | Comments(0)

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